藤子・F・不二雄ファン

 

富山県高岡市定塚町出身。富山県立高岡工芸高等学校電気科卒。血液型O型。安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と共に藤子不二雄としてコンビを組み、作品を発表した。代表作は『ドラえもん』、『パーマン』、『キテレツ大百科』、『エスパー魔美』、『21エモン』など。

1951年(昭和26年)、安孫子と共に『毎日小学生新聞』に投稿した「天使の玉ちゃん」が採用され、共に17歳にして漫画家デビューを果たした。一時製菓会社に勤めるも、作業中の不意の事故によりすぐ退社して自宅で漫画の執筆に専念することになる。その2年後、新聞社で働いていた安孫子を無理やり誘って上京し、「藤子不二雄」の合作ペンネームでプロ漫画家としての活動を始める。2人は博学博識で、そこから生まれるユニークかつユーモア溢れるアイディアは数知れず、低年齢の子供向け作品を中心として、『オバケのQ太郎』、『パーマン』、『ドラえもん』などの国民的な大ヒット作をいくつも生み出した。

1988年(昭和63年)にコンビを解消し、藤本は藤子不二雄Ⓕとして活動を始めたが、約1年後、トキワ荘の仲間だった石ノ森章太郎の助言によって藤子・F・不二雄に改名した。後年になるに従って大人向けのダークな作風が強くなっていった安孫子とやや違って、藤本は時おり大人向きの作品を手がけながらも『ドラえもん』を中心とした子供向け作品をメインに漫画の執筆を続けた。子供向け作品を手がけるその手腕のあざやかさは、「子供たちの夢と願望を心にくいばかりに視覚化する」と評されるように極めて高い評価を得ており、没後も子供漫画の名手としてのその名声は揺らいでいない。


 

評価

生前
1982年(昭和57年):第27回小学館漫画賞児童部門 受賞(『ドラえもん』当時は藤子不二雄)1989年(平成元年):映画特別功労賞、ゴールデングロス賞 受賞
1994年(平成6年):第23回日本漫画家協会賞文部大臣賞受賞
1996年(平成8年)9月20日:自宅の仕事部屋にて、『大長編ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』を執筆中に鉛筆を持ったまま意識を失う。
1996年(平成8年)9月23日:肝不全のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。62歳没。

死後
1996年(平成8年):アニメーション神戸’96読売賞 受賞(アニメーションの文化と産業振興への寄与に対して)
1997年(平成9年):第1回手塚治虫文化賞 マンガ大賞 受賞(『ドラえもん』)
2000年(平成12年):小学館が12903部限定生産の「F’s complete works 藤子・F・不二雄複製原画集」を発売。
2006年(平成18年):多摩区に住んでいたため川崎市の生田緑地内に「藤子・F・不二雄ミュージアム」という記念館が設立されることが正式に発表される。
2008年(平成20年):12月に「藤子・F・不二雄ミュージアム」の建設地が、川崎市多摩区長尾2丁目・小田急向ヶ丘遊園ボウル周辺に決定。
2009年(平成21年):小学館が特設サイトにおいて藤子・F・不二雄大全集の発売を発表。『オバケのQ太郎』などを収録した第1期全33巻が、2009年(平成21年)7月より2010年(平成22年)6月まで月2 – 3冊のペースで刊行された。また第2期全33巻が2010年(平成22年)8月より順次刊行されている。同時に、藤子・F・不二雄作品のキャラクターをメディアミックス展開させる「Fプロジェクト」の立ち上げを発表した。
2011年(平成23年):9月3日に藤子・F・不二雄ミュージアム開業。また、9月より藤子・F・不二雄大全集第3期34巻が刊行されている。


 

藤子・F・不二雄先生人物像

 

本人によれば、おとなしくてまじめで体が弱かった藤本は、小学校時代は壮絶ないじめに遭い、番長格の少年に似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せなかったそうである。その時の気持ちがドラえもん、のび太に活かされているという。また、藤子不二雄Ⓐの作品『まんが道』にも、その時の描写がある。ベレー帽とパイプがトレードマークであり、作中に登場する本人の似顔絵にも描かれている。

野球好きで、近鉄バファローズファンであった(『小学四年生』1971年(昭和46年)1月号で読者の質問に回答)。また鉄道ファンでもあり、鉄道模型が趣味の一つ。1983年(昭和58年)にはテレビ番組『ドラえもんヨーロッパ鉄道の旅』にキャラクターと共演している。また鉄道、鉄道模型、SL等を題材にした作品も多数存在することからも情熱のほどがうかがえる(SF短編『四畳半SL旅行』、『ドラえもん』「SLえんとつ」「のび太の模型鉄道」「天の川鉄道乗車券」、『ポコニャン』「ダイナミックもけい鉄道」など)。

恐竜についての造詣の深さでも知られ、仕事机には始祖鳥の化石のレプリカやティラノサウルスのプラモデル、果てには本物のディプロドクスの尾の骨までが飾られていたという。恐竜に関する関心の強さは作品の各所にも現れ、ドラえもん大長編第1作『のび太の恐竜』、第8作『のび太と竜の騎士』や本編の各所、SF短編と『T・Pぼん』などでも恐竜をモチーフにしたエピソードは数多い。

西部劇やガンマンにも関心が強く、それに関した話も少なくない。のび太には射撃の才能があるエピソードが多く描かれており、またドラミとタッグを組んだ後期の話(単行本24巻「ガンファイターのび太」)や『T・Pぼん』やSF短編集(『休日のガンマン』)などで本格的なスタイルのガンマンたちを描いている。藤子不二雄Ⓐ・鈴木伸一・つのだじろうと共に8mmカメラで西部劇を撮影したこともある。
第二次世界大戦中に小学校時代を過ごした世代であり、大戦終結当時は国民学校(小学校)6年生であった。従って、兵器、軍事、クーデター、革命などに関する作品も多くある(『まんが道』では戦艦の三面図を描いていたり飛行機の模型がある場面)。作品としてはドラえもんでのスネ夫の戦艦「大和」乗っ取りから潜水艦攻撃までのシーン、大長編『のび太の宇宙小戦争』など。兵器に関しては子供が憧れる格好いいものと描いている描写(スネ夫のセリフなど)があるが、戦争自体への考えは世代に関係なく一貫して虚しい物や恐るべきものとして描いている。また、ドラえもん初期には、第二次世界大戦に関するエピソードが幾つか見受けられる(疎開先での児童生活の辛さを描いた「白ゆりのような女の子」、上野動物園での動物の殺処分について触れた「ぞうとおじさん」など)。『T・Pぼん』では主役達が特攻隊員に歴史干渉を実施している。

『ドラえもん』など、SF色(特にタイムトラベルを描いた内容)の強い作品の多さなどから解る通り、SFに対しての関心も強かった。SF短編などには、名作SFからの影響や引用が散見できる。『スター・ウォーズ』が大ブームになった時期には、『ドラえもん』の各所に『スター・ウォーズ』にちなんだネタを数多く登場させた(パロディとして描いた「天井うらの宇宙戦争」(姫はアーレ・オッカナ、ロボットはR3-D3、敵はアカンベーダー)の話のほかにも、リザーブマシンで取った映画の席が『スター・ジョーズ』であるなど。SF短編では『ある日…』と『裏町裏通り名画館』に『スター・ウォーズ』のパロディ劇中劇がある)。
初の専属アシスタントとして、『まいっちんぐマチコ先生』で知られるえびはら武司がいる。むぎわらしんたろう(萩原伸一)もアシスタントとして晩年の藤本を支え、一緒に劇を見たり途中でそばを食べるなどとかなり親密な関係だった。また、むぎわらが描いた漫画に細かい部分まで指導を行ったり、『ドラえもん』単行本の表紙を任せるなど、後進としても目をかけていた。

いくつかの作品に登場するキャラクター小池さんと同様に、「好きな食べ物はインスタントラーメン(特にチキンラーメン)」であると語っていた。小池さんのモデルである鈴木伸一は、自分よりも藤本の方がずっとラーメン好きだったと語っている。お湯をかけるだけで食べられるという点が「魔法のよう」であると言い、旧スタジオ・ゼロの屋上でインスタントラーメンを食べているグラフが撮影されたこともある。
アニメ版の制作は畑違いということもあり、細かいチェックや要望などは特に行わなかったとされている。ただしずかについてだけは特別なこだわりを持っていたらしく、絵や性格などに注文を出すときがある。また、『ドラえもん大全集』にて大長編のエンディングテーマで武田鉄矢の降板が持ちかけられたとき、強く拒絶したことが武田本人により明かされている。また、最初の映画『のび太の恐竜』に客が入るのか不安で、公開前日に映画館の向かいのホテルに宿を取った。封切り同時に多くの子供が駆け付け満員になったのを見て安心したという。

藤子Aと同様、手塚治虫を子供の頃から生涯を通じての最大の師と尊敬し続けた。作風の面においてはハッピーエンドが多い藤子の作品と、重いテーマをシリアスに描くことの多い手塚の作品は対照的な部分もあるが、藤子Fは漫画の描き方の本や自伝などで頻繁に手塚作品への特別な思いを述べており、「いつか手塚先生のような壮大な作風にも挑戦してみたい気持ちもある」とも語っていた。手塚を信奉するあまり、『コロコロ』初代編集長の千葉和治が手塚への批判を漏らしたところ、火が出るほど怒り、千葉を1週間近く事務所に出入りさせなかったという。
3人の娘がおり、三女はかつてテレビ東京に勤務していた。娘によれば藤本は、平均睡眠時間4時間という忙しさの中でも、家族と一緒の時間をできるだけ取るように心がけた人だったという。
晩年、小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』などに作品が掲載される際には、「マンガの王様」というクレジットがあった。